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「『都の復活,今、倭人わ何をすべきか・・・』」宮・寺の大建築と飛騨の匠。②

2007年12月2日 宮・寺の大建築と飛騨の匠・・・

前回の①につづくお話しなんですが

消えた飛騨の匠

本文より
なぜこの吉備池廃寺=百済大寺はこれほど大きいのでしょうか。結論から先に
言えば、これは飛騨の匠の力によるところが大きいのではないかと、私は考えて
います。数年前、飛騨の国府町でシンポジュームがあり、そのためいくつか調べ
ました。高山市の隣の国府町と古川町のある小盆地の真ん中には宮川が流れて
いますが、その狭い谷に古代寺院が十四、なかには飛鳥時代の寺も幾つか確認
されはじめています。これは発掘の成果です。ところが、このような大建築の技術
がその後当地に残っているか調べてみると、中世までに一気になくなってしまい
ます。中世につくられた経堂などが残っていますが、これは細かくて手のこんだ
技術の建築で重要文化財になっています。
しかし私は、古代の大建築をつくる技術はどこへ行ったのだろうかと疑問に思い
調べてみました。『日本書紀』には百済大寺をつくるのに、最初は蘇我に遠慮
していた舒明天皇は、「百済川の東の民を用いる。西の民は宮を造る」と記して
います。ところが、この寺はすぐに焼け落ちます。その後、重ねて今度は皇極
女帝が造りますが、この時は「近江から越にわたって徴発した民を以て、造寺に
あてる」と書いてあります。この二人の天皇は近江出身で、民を徴発した「越」は
現在の北陸です。私はこれが何故飛騨と結びつくのだろうか、と考えてみました。
現在の感覚では、近畿や名古屋から飛騨の高山はとても遠くて不便ですが、
実は富山や金沢の方からは意外に早く行けます。信濃・木曽から都への道が
ついたのは奈良時代の初めになってからで、まして飛騨からの道はもっと遅れ
ます。
ところが、すでに縄文末期から古墳時代にかけての、縄もクギも使わずにほぞ穴
で木材を組み立てる技術や大建築を建てる技術が、富山県の遺跡をはじめ越や
日本海域の諸遺跡から発見されています。そうすると、これらの技術が越の民と
ともに来て、あの大きな寺がつくられたのではないかと考えられます。越前の丸岡
町は継体天皇のお母さんの里ですし、継体天皇にかかわる弟国部や勾部という
部民が飛騨にいます。日本海沿いには縄文時代以来の巨木建築の遺跡がたく
さん出ていますから、その伝統技術をもつ彼らは越の国から日本海沿いにやって
きて、一緒に百済大寺の造営に投入されたのだと思います。ですから、このような
大きな寺をつくった技術者は、飛鳥寺などをつくった渡来人系の東漢氏(やまとの
あやうじ)ではないと思います。木工技術の手が違います。ずばり言えば、私は
飛騨の匠だと考えています。
そう考える根拠に、文武天皇早々に施工された、中国の唐に学んだ最初の日本法
である大宝律令があります。その、全国に力役をかけるための賦役令の最後に
「斐陀の国の条」がついていることが挙げられます。斐陀国は飛騨国のことで「飛騨
工」たちをとくに都に徴発してくるための条文です。この部分は唐令にはなく、前条
の仕丁条とともにあきらかに日本製の法文です。これを考えると、彼らの郷里の
飛騨に飛鳥時代以来の古代寺院が十四もあったことや、しかも中世の飛騨には
大建築が残らなかった事の謎が解けましょう。つまり、古代の大建築の技術者(飛
騨工)を根こそぎ動員したのでしょう。これは、彼らの郷土史から言えば悲惨その
ものです。根こそぎ中央の、飛鳥や藤原京・平城京の殿舎や寺院などの造営へ
徴発されたために、最先端の技術が地元に残らなかったわけですから。

                               門脇禎二著より抜粋




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古代の大建築の技術者(飛騨工)を根こそぎ動員したのでしょう。これは、
彼らの郷土史から言えば悲惨そのものです。根こそぎ中央の、飛鳥や
藤原京・平城京の殿舎や寺院などの造営へ徴発されたために、
最先端の技術が地元に残らなかったわけですから。

と言う風に門脇先生は書かれていますが、技術者にとってはこころわくわくと

出かけて言ったのではないでしょうか。

地元にとっては大きな損失には違いないでしょうが今から振り返れば技術の

研鑽になっていき、今の礎を築きあげたのではないでしょうか。技術者冥利に

つきるでしょう。

そして今まで以上の新技術が次々と考えられてきたのではないでしょうか。

なんか目を瞑れば飛鳥に行くのが嬉しくてたまらない光景が何故か脳裏をかす

めました。

しかし本の遠飛鳥宮・近飛鳥宮に関する所伝を見ると・・・

古事記 日本書紀 天皇 天皇の字 陵墓
遠飛鳥宮 允恭 河内恵我長野原陵
 石上穴穂宮 穴穂宮 安康 穴穂王子 大和菅原伏見陵
 長谷朝倉宮 泊瀬朝倉 雄略 大泊瀬王子 河内丹比高鷲原陵
 伊波礼甕栗宮 磐余甕栗 清寧

河内坂門原陵

近飛鳥宮 近飛鳥八釣宮 顕宗 弘計王子 大和傍丘磐杯丘(北)陵
 石上広高宮 石上広高宮 仁賢 億計王子 河内埴生坂本陵
 長谷列木宮 泊瀬列城 武烈 小泊瀬王子 大和傍丘磐杯丘(南)陵
 伊波礼玉穂宮 磐余玉穂宮 継体 男大迹王子 摂津三島藍野陵
 勾金箸宮 勾金箸宮 安閑 勾王子 河内古市高屋丘陵
 檜隈之盧入野宮 檜隈之盧入野 宣化 高田王子

大和大倭国身狭桃花鳥
坂上陵

 師木島大宮  磯城島金刺宮 欽明 広庭王子 大和檜隈坂合陵
百済大井 敏達 訳語田王子 河内科長陵
   中略
 小治田宮 小墾田宮 推古
飛鳥岡本宮 舒明 田村王子 大和押坂陵


天皇の年間を見てみると敏達(びたつ)天皇の在位は572年~585年なんですが

舒明(じょめい)天皇の在位は629年~641年になっています。

四天王寺を創建するために呼ばれた金剛組の匠は資料によると・・・(参考)

と言うことはなんなりかの技術交流はあったのかなと考えるのが

普通なんですが、それとも技術の凌ぎ合いだったのか。。。

参考

金剛組の歴史という分厚い1冊の会社案内があります。
ここには、金剛家初代当主・重光(他二名の工匠)が
四天王寺創建のために百済より招かれるとあります。

創業は飛鳥時代第30代敏達天皇6年西暦578年の
と書いてあります。



金剛組 001.jpg  金剛組 004.jpg

また、考えると株式会社金剛組は凄い会社ですね。。。

もう一つ達磨の由来より

P1010058.JPG


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この記事へのコメント:

飛騨古川といえば、本光寺、円光寺、真宗寺の3つのお寺がまず有名ですね。
ただ浄土真宗本願寺派ということで、縁起はさほど古くはないのかもしれません。
作りは名工の手による凝ったもので、鐘楼や門に至るまで、どれをとってもその細工の細かさに驚いた記憶があります。
飛鳥時代のお寺はなんというお寺でしょうね...

投稿者 うどん2 : 2007年12月02日 23:36

うどん2さん

本文には、国府町と古川町のある小盆地の真ん中には宮川が流れています
その狭い谷に十四、中には飛鳥時代の寺も幾つか確認され始めていると書かれています。これは発掘の成果だと書いてありますが・・・
http://www.hida.jp/rekishi/index.html#jyoumon
調べると。。。
飛騨には、古代寺院が14ヶ寺もある。白鳳寺院は、国府、古川盆地に多いが、奈良時代になると国分寺(総和町)、国分尼寺(岡本町2丁目)が高山に造られ、国府が高山盆地に置かれた。
 現在の国分寺本堂建物は室町時代の建築だが、約1m下層には奈良時代の金堂建物跡が確認されている。さらには、国分尼寺も辻ヶ森三社境内地に発掘調査され、金堂、講堂建物跡が発見され、保存されている。
以上らしいです。

投稿者 達磨 : 2007年12月02日 23:57

なるほど、現存するということではなく、寺院跡が見つかっているということですね。

平城京から平安京遷都の話題のときにも、当時の不便な交通手段でよく都を写すことができた、そのエネルギーはスゴイ!と書きましたが、この飛騨の地も、今でさえ車で大変な場所。
そこから当時、飛鳥の都まで名工達が出向いていったということも、想像を超えるエネルギーだったと思います。

投稿者 うどん2 : 2007年12月03日 01:09

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